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佐敷城 (肥後国) : ミニ英和和英辞書
佐敷城 (肥後国)[さしきじょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [しろ]
 【名詞】 1. castle 
: [こえ]
 【名詞】 1. manure 2. night soil 3. dung 4. fertiliser 5. fertilizer 
: [のち]
  1. (n,adj-no) afterwards 2. since then 3. in the future 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

佐敷城 (肥後国) : ウィキペディア日本語版
佐敷城 (肥後国)[さしきじょう]

佐敷城(さしきじょう)は、肥後国の南部、現在の熊本県葦北郡芦北町にあった日本の城加藤清正によって築城された近世の佐敷城は佐敷花岡城とも呼ばれる。佐敷城の城下は薩摩街道と人吉街道(相良往還)が通る交通の要地であり、戦国時代中期までは相良氏、戦国時代末期には島津氏の勢力拡大をめぐって佐敷城の攻防が繰り返された。
城跡は国の史跡に指定され、指定名称は佐敷城跡(さしきじょうあと)という。
== 歴史 ==
佐敷城の名は在地の豪族である佐敷氏が拠る城として南北朝時代から歴史書に登場するが、その所在地は今日の佐敷城址ではなく、その東に位置する「東の城」が中世の佐敷城であったという説が有力である。この中世佐敷城を巡って八代を本拠とする名和氏と球磨から勢力を伸ばした相良氏との間で争奪が繰り返されたが、1559年(永禄2年)肥後守護である菊池為邦により相良氏の葦北領有が公認される。
1581年(天正9年)、島津義久相良義陽と水俣で戦ってこれを降し、葦北郡を割譲させて家臣の宮原景種を佐敷城代とする。次いで八代郡も併合した島津氏は肥後へ進出する道が開け、以後盛んに九州各地を経略したが、1587年(天正15年)に豊臣秀吉九州征伐を受けたことにより、肥後の諸城を放棄して撤退を余儀なくされた。
豊臣政権の下で肥後の領主に任じられた佐々成政の統治は国人一揆によって短期に終わり、1588年(天正16年)葦北郡は肥後北部の半国を拝領した加藤清正の飛び領地となる。加藤清正は花岡山に石垣を巡らした近世の佐敷城を築き上げ、加藤重次を城代として置いた。
1592年(文禄元年)6月、城代の加藤重次が文禄の役に従軍して不在であることに乗じて島津歳久の家臣である梅北国兼が佐敷城を占拠したが、井上吉弘など留守役の働きで梅北国兼は討ち取られ、佐敷城は奪還された(梅北一揆)。
朝鮮の役から帰国した加藤氏は島津氏への押さえとして佐敷城のさらなる普請を行うが、はたして1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが起こると、西軍方の小西氏と島津氏に挟まれた葦北郡は孤立し、佐敷城は島津忠長の軍によって包囲される。加藤重次は、関ヶ原における西軍敗北の報が伝わり島津軍が兵を引くまでの約一ヵ月間佐敷城を守りきった。
その後も佐敷城の増改築は続けられたが、1615年(元和元年)に一国一城令が布告され、佐敷城は石垣を崩されて廃城となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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